先日、その境内・五十志霊神社に祀られる「大竹与茂七」についての話を、新発田図書館に収蔵される書籍で、初めて拝見致しました。
まあ、私が生まれた地・新発田に、これほどまでに壮絶な「怨霊話」があったとは。
今でも、新発田の町中で大火事が発生すると、悪知恵働く庄屋と奉行所の役人達の罠に嵌り、江戸時代に無実の罪で斬首された名主・大竹与茂七の祟り「与茂七火事」ではないかと噂されるそうな。
関ヶ原の戦いのときは徳川家康の東軍側に付き、外様大名として江戸時代も、この地を治めておりました。
溝口氏は城下町・新発田に居城を構え、その支配地域は、新発田市のみならず、阿賀野川・信濃川下流域となる現在の新潟市、阿賀野市、加茂市にまで及ぶ広大な地域に及んでおりました。
そんな訳で当時、新発田藩領だった中之島村(現・長岡市中之島)。
その当時の中之島村・名主が、今回の悲劇の主役「大竹与茂七」です。
さて、宝永元年(1704)に、信濃川水系の刈谷田川で大洪水が発生します。
最初、この付近を統括する庄屋に、村で起こるかもしれない洪水対策の陣頭指揮を依頼しに行くも、庄屋は妾の所に出かけたまま帰ってこない始末。
頼りにならない庄屋に替わり、覚悟を決めた名主「大竹与茂七」。
村の陣頭指揮を担い、堤防決壊を防ぐための自身の山の他、藩有林を無断で伐り、堤防の補強に使うという対応を行います。
要するに無能な庄屋に替わり「藩の掟」に逆らってまでも、村人のために働いていたそうな。
ちなみに「名主」は、当時の村役人の筆頭(身分は百姓)のことだそうで。
大竹与茂七のこうした無断行為を快しと思わなかったのは災害発生時、無責任にも妾の家に居た、庄屋「星野儀兵衛」。
「庄屋」は、村を統括する役職(村長?)だったらしいです。
まず、この無断伐採の罪を問うべく、新発田藩に訴えを起こしたそうな。
しかしながら、現地調査までして事実を確認した藩からの判決は無罪。
当然、面白くないのが、訴えた側の庄屋・儀兵衛。
その後「大竹与茂七」は、大凶作の救済のため借りた借金の返済をめぐり、再び庄屋・儀兵衛から、新発田藩の奉行所に訴えられてしまいます。
借金返済時に借用書を返却してもらわなかったため、その借用書を盾に、訴えられた模様。
前回の無罪判決を悔やむ大庄屋・儀兵衛、名主・与茂七を確実に葬り去るため、奉行所の役人を買収します。
さて、庄屋から買収された奉行所の役人、名主・与茂七の意見など聞き入れず。
最後は裁判で与茂七の口を利けなくするため、残忍にも釘抜きで全ての歯を抜かれてしまったとか。
その場で与茂七、血を吐きながら無実の罪を着せた関係者達を「呪う」言葉を発したとか。
という訳で、あくどい庄屋・儀兵衛らの企みは成功。
「大竹与茂七」は、刑場(現・新発田市中曽根町)にて斬首・・・。
新発田市中曽根町にある「名主・与茂七鎮魂の地(処刑の地)」
脇には「身代わり地蔵」が。
近くのショッピングセンター脇にも、刑場跡の鎮魂のためか、首なし地蔵が祀られる祠が建てられております。
その後、現世への無念残し怨霊と化した「大竹与茂七」が、城下町・新発田の人々を恐怖に陥れたようです。
まず、無実の罪をきせた大庄屋と奉行所の役人が、次々と謎の「狂い死に」を遂げたそうな。枕元に、与茂七の霊が姿を見せたんでしょうかねえ・・・。
そして享保4年(1719)、与茂七の無念の魂は「青い火の玉」となり町中を飛び回り、
城下町・新発田の大半が焼ける大火事を引き起こしたと噂されます。
この火事は「与茂七火事」と呼ばれ、無念の死を遂げた与茂七の祟りだと怖れられたそうな。
その後、新発田藩は、新発田総鎮守・諏訪神社の境内に、藩に功績のあった方々を祀る「五十志霊神社」を建立。
そこに何故か、大竹与茂七を「火伏せの神」として祀り、怨霊鎮魂を祈願したそうな。
しかし、大火災を引き起こしたと考えられる「与茂七(の怨霊)」を、「火伏せ(火災除け)の神」として祀るとか、皮肉が利き過ぎてる気もしますが、まあ、新発田藩が、どれだけ与茂七(の怨霊)を恐れていたかの証拠でもありますね。
そのほか現在、村人達が与茂七鎮魂のため建立した「石動神社」が、新発田市中曽根町に移転・鎮座しているとのこと。
まあ「与茂七火事」が、ここまで壮絶な「怨霊話」だったとは。
この当時の公式記録は、江戸幕府からの無用な追求を避けるためか、全て廃棄されたらしいので、言い伝えのみで、事実を確認するすべが無いようです。
ただ現在、与茂七が新発田藩に功績があった人を祀る「五十志霊神社」に合祀祀されている事実と、新発田市町中で過去3回発生した大火事が、「与茂七火事」と呼ばれ恐れられている事から、全て「創り話」であると切り捨てられない「祟り話」の怖さがあります。
なお、「新発田藩の三大事件/大沼検爾・著(昭和54・1979年)」などを拝見すると、名主・与茂七への道理を曲げた無茶な判決は、外様大名である溝口家・新発田藩を徳川幕府のお取り潰しなどの追求から守るために、仕方なしに行われた事だとの記述がありますが、それならなおさら与茂七の「無念の思い」が増すばかりであったことは、容易に推測出来ます。
いずれにせよ、「冤罪」で殺された人の無念の恨みというのは、恐ろしいものですね。
「与茂七火事」が再び起きぬよう、怨念の凄まじい力が再び荒れ狂わないよう、新発田市民は、祈りを捧げていかねばなりません・・・。